MENU

九州支部 平成28年度 現地研究会開催報告

九州支部では、平成28年10月28日(金)・29日(土)、鹿児島県奄美大島において平成28年度現地研究会を開催した。

 

sitestip2016-01

図1 現地研究会における主な見学先

 

まず、一日目には、奄美市住用町大字山間に位置する有限会社中部砕石を訪問し、花崗岩および硬質砂岩の採掘現場および積出港を見学した。奄美地域の土壌は、主に「石灰岩」「粘板岩」「花崗岩」「泥灰岩」「海砂・サンゴ片(砂丘土)」を母材としているが*1、その中でも奄美大島においては、花崗岩の分布はごく局所的で、中部砕石が位置するのもその場所である。

 

sitestip2016-02

図2 中部砕石代表取締役 國馬氏より説明を頂く様子

二日目には、大島郡大和村思勝にある大和町中央公民館館長、中山昭二氏の案内のもと、険しい道を車で登り詰めて名音字深山塔へ、さらに後は徒歩で山中に分け入り、大和鉱山跡付近へ向かった。

国内では、戦前は製鉄用、戦時中にかけては製鉄および乾電池用の用途でマンガン鉱が多くの鉱山で採掘されたが、大和鉱山もその一つであった。鉱質は良く、本邦屈指の鉱山であったという。大和鉱山においては、大正時代から1937年までで約4000トンのマンガン鉱が採掘され、船積みして八幡製鉄所に売却されていた。その後、三重県の石原マンガン会社によって1937-1944年、さらに1957-1964年にかけて操業されたものの、激しい国際競争の中、閉山に至った。当時、採掘したマンガン鉱は坑口で手選鉱の後、いくつかの尾根を経由した空中ケーブルで集落まで運搬し、海岸までトロッコで運んでいたという*2

現在では、埋め戻された後に樹木が生い茂り、坑口は見つかっていないが、当時のまま山中にぽつんと取り残され錆びついた、半分自然と一体化したかのような重機や、山中の小川のせせらぎの脇に転がっている黒く重いマンガン鉱などが、当時の様子を忍ばせた。

なお、昭和37年当時の鹿児島県地学調査研究会報告書によると、大和鉱山のマンガン鉱床は長さ50m、巾20m、厚さ 1~7 mの餅盤状の2ケの鉱体より成り、本鉱床に産する鉱石類は、二酸化マンガン鉱、ブラウン鉱、チョコレート鉱、ギラ鉱、珪酸マンガン鉱とされている*3。浸出水はダムに溜められ、マンガン濃度が高いため飲用にはならず、下流にある発電所に送って利用されていた。

 

sitestip2016-03

図3 大和鉱山跡に残る重機

sitestip2016-04

図4 二酸化マンガン鉱

 

[参考文献]
*1 独立行政法人 農畜産業振興機構 (https://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000877.html)
*2 大和村誌 平成22年発行
*3 鹿児島県奄美大島マンガン鉱床調査報告 昭和37年3月発行

 

(文責:九州支部庶務幹事 九州大学・沖部奈緒子)